虫明港からの眺め

岡山県 邑久町漁業協同組合

美しい瀬戸内の海に
牡蠣と生きる人々の歴史がある。

かき養殖のはじまり

邑久町虫明のかき養殖の歴史は、1926年(大正15年)まで遡ります。
当時、虫明では漁業を中心として生計を立てていた漁師が多く、漁閑期にあたる冬季には収入減に陥っていました。
それを見かねた猪又俊雄氏が、冬季の収入源として、かきの養殖を提案したのが始まりです。
猪又氏は、新潟から当時の裳掛尋常高等小学校へ代用教員として赴任されました。
猪又氏は水産学校出身であったため、虫明水域の漁労の状況、各種試験、調査を重ねた結果、「獲る漁業」から「養殖漁業」に移行すべきだと説き、「カキ」の養殖に重点をおいて熱心に指導されました。
在職8年、30歳で他界されましたが、猪又氏の教え子たちは、終戦後、試行錯誤を重ねながら今日の『虫明かき』の名声をみるに至りました。

『参考:故猪又俊雄氏をしのぶ 山田栄』


猪又俊雄氏の略歴
明治37年9月3日 新潟県西頚城郡西海村で生まれる。
大正13年3月 新潟県立能生水産学校漁撈科卒業。
大正15年1月 裳掛尋常高等小学校へ代用教員として赴任。(22歳)
昭和4年5月 裳掛実業補習学校専任助教諭となる。
昭和8年12月4日 死去。享年30歳。

現在のかき養殖に至るまで

裳掛村(現在の邑久町)で本格的にかき養殖が開始されたのは1951年(昭和26年)頃からです。
当時の底曳網業者の一部、30名が、広島および宮城のかき種を導入し、干潟に竹杭を立てて養殖を行う簡易垂下式による養殖を始めました。
この年の水揚げは8トンでした。
その後次第に規模を拡大し、1965年(昭和40年)からは、前年の就業者数75名から、120名へと一気に増加しました。
また、1963年(昭和38年)には簡易垂下式よりも生産効率の良い、いかだ式養殖(本垂下)が出現しました。
これにより、1970年代(昭和40年代後半)には簡易垂下式養殖はほとんど行われなくなり、いかだ式本垂下養殖が主流になり、ほぼ現在の養殖設備の形が整いました。
写真は1955年(昭和30年)頃の笹小屋でのかき打ち風景です。


終戦の暮れ、幸いにも郷里に復員できました。
食べるのがやっとの当時、魚も次第に減少していきました。
昭和26年頃最初の試みとして、宮城産の種苗を使用し、有志により筏をこしらえました。
結果は台風のため筏が潰れて成功しませんでした。
翌年ひびたて式の筏(海中の竹をたてて風波に耐える)を造りましたが、今度はカキが斃死しました。
筏の竹も山陰から貨車によって送られたものを片上で筏に組み引っぱって帰りました。
その後、宮城からの種苗は注文から納入まで日数がかかるので斃死が多いことから、広島産の種苗に変わりました。
又、地元で採苗の技術が確立されるようになりました。
昭和39年ごろから養殖をする人も増え、内海の一部だけでは養殖場が狭くなり、外海を利用するようになりました。
そして広島の筏を見習って徐々にひびたて式の筏から本垂筏(浮き筏)が普及してゆきました。

『参考:かき養殖の始まり 松本清市』


このように当初は台風のため筏が潰れたりと様々な苦労がありましたが、改善を重ね、今では岡山のかき養殖の中心的存在となり、県内随一の生産量を誇ります。
半世紀以上にわたって受け継がれてきたかき養殖に、虫明の人々は並々ならぬ愛情を持っています。
産地がどれだけ誇りをもって努力してきたかを目に見える形でのこす、という目的で建てられた『あけぼのカキ会館』。
牡蠣に対する感謝の気持ちを表す『牡蠣供養塔』。
毎年11月23日の牡蠣の日に合わせて行われる『かきまつり』。
等々、町には「牡蠣」の二文字があふれています。
また、牡蠣供養塔の隣には猪又俊雄氏を称えた顕彰碑があり、かき生産者のみならず、近隣住民の方々からも今なお大切にされています。

  
  
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